2020年7月2日木曜日

えびらをひらく


 緊急事態宣言が解除されしばらくたちましたが、都内では100人以上の感染者が報告されたそうです。その数字に疫学上どのような意味があるのか専門家ではないのでわかりませんが、それなりに大事なのだと思います。
 こういう感想を他人事という。
 ともあれ、そういった事態が続くなかで直毘会も活動を三月以降休止しております。すでに告知をしましたが、再開は八月以降と曖昧な状況です。
 以前にも震災の影響や館の改装工事などで半年から一年ほどの休止をしたことはありますから、異例というほどのことでもないのですが、再開の目処がたたないというのは、それなりに不安を感じるところでもあります。
 ブログを書くことでそういった不安を解消できるわけではありませんが、長い間なにもしていないように思われるのも心外ですので、なにもしていないよりは良いだろうと思い、筆をとった次第です。
 もちろん実際に筆はとっていません。慣用句としてそういう表現があるのでそのまま使っただけです。僕にかぎった話ではないと思いたいのですが、日常的に筆を使う機会はどんどん減っているのではないでしょうか。僕なんかは子どもの頃に書道で使ったきりです。こうやって日常の中から筆という道具は少しずつ姿を消している。多分。おそらく。
 子どもの頃の経験だけで語るのもどうかと思いますが、書道ってすごく面倒だった記憶があります。墨をすって、筆につけて、その前に筆の先を湿らせる必要がありましたっけ? それで破れやすい半紙を文鎮でおさえて慎重に文字を書く。やるべき手順がとても多く、それだけにとても苦手でした。あちこちを黒く汚して怒られた思い出しかない。
 僕にとって『筆をとる』というのはそういう記憶をともなった言葉です。
 さて、遠い未来にこの『筆をとる』という言葉が残っていたとして、筆という道具そのものは残っているでしょうか。今よりは筆記用具として一般的でないものの、資料的または伝統的に残されていることはありそうです。しかし今よりもっと目にすることも手に取る機会も少なくなっていることはあるかもしれない。そうなったら『筆をとる』という言葉の意味は知っていても、実際の筆は見たことも触ったこともないという人がほとんどになるんでしょう。慣用句として『筆をとる』を使うことはあっても、そこには隣の席の山口君のジャンパーを汚してしまい怒られた記憶などはまったく介在しない。多分。おそらく。
 というわけでここまでを前置きとして強引に新陰流の話を少しします。
 新陰流の教えの中にも、そういった表現は多々ありますね。
 僕が聞いて印象的だったのは『後のえびらをひらく』という言葉でした。まず『えびら』ってなんですかというのが素朴な疑問です。辞書を開けば、矢をいれて背や肩、腰にかけ携帯する道具云々と書かれています。だからといって理解できたわけではありません。なんとなくこういうことを言いたいんだろうな、というのを察することはできても、僕は『えびら』を見たこともなければ触ったこともない現代っ子なので、いまひとつ実感がともなわない。
 会員の方に説明するときも通り一遍の説明はしますが、まあ説得力はないと思います。では実際に『えびら』なるものを着けてみたら実感が湧くのか。それを着用して日常生活を送るところから始めるべきなのか。隣の席の山口君のジャンパーをその矢で射てみたほうがいいのか。それはそれで一理あるとは思います。自分ではやらないし、おすすめもしませんが。
 とにかくそういった表現を意味の上だけではなく、体の実感とともに理解するのはかなり難しい、ということが言いたかった。多分。おそらく。
 そういうことにしておきましょう。

 とまあ、こういった調子で今後、不定期にブログを更新していこうとは思います。なるべく新陰流に関することを書きたいとは思うのですが、突っ込んだ内容は稽古の中でほとんど口にしてしまっているので、ここではなるべく脇道に外れたような、あまりためにならないことを気楽に書こうと思っています。
 気が向いた時にでも読んでみて下さい。
 

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